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第71回:日本車の輸出拡大と現地生産 生き残りのためのプレミアムブランド戦略 - webCG

1970年代に急増した日本車の対米輸出

日本の自動車メーカーがアメリカへ進出を始めたのは、1950年代である。1958年のロサンゼルス自動車ショーには、トヨタから「クラウン」と「ランドクルーザー」、日産から「ダットサン210型セダン」と「220型トラック」が出品された。しかし、当時の日本車の性能ではアメリカの交通事情に対応できず、本格的な輸出を始めることはできなかった。

トヨタはターゲットを変更し、1963年からヨーロッパに進出。デンマークにクラウンを輸出したのを皮切りに、オランダ、ノルウェーなどに販売拠点を築いていく。一方、アメリカでは1966年に投入した「コロナ」がセカンドカーとして高評価を得て販売が急増。トヨタにとって最大の輸出先となった。1968年からは「カローラ」の輸出も始まり、1971年には40万4000台の完成車が海を渡った。

1973年のオイルショックは、燃費のいい小型車を得意とする日本のメーカーにとって追い風となった。1970年にはアメリカの輸入乗用車販売台数のトップ10に入っていたのはトヨタと日産だけだったが、1975年にはホンダ、マツダ、三菱も加わっている。そしてこの年、フォルクスワーゲンに代わってトヨタが首位に。アメリカの輸入車販売台数のうち、51.8%を日本車が占めることになった。

1970年代末にはさらに日本車の輸出が拡大し、1980年にはアメリカで販売されるすべての自動車の中でのシェアが21.2%に達した。日本車の急増は政治問題となり、1981年に対米自動車輸出の自主規制が始まった。代わりに日本のメーカーはアメリカに工場をつくり、現地で生産することを選んだ。

1958年に本格的な対米輸出を開始したトヨタだが、製品の性能不足とそれに伴う販売不振から、1960年末に乗用車の輸出を中止することとなる。
1958年に本格的な対米輸出を開始したトヨタだが、製品の性能不足とそれに伴う販売不振から、1960年末に乗用車の輸出を中止することとなる。拡大
実質的に、トヨタの米国進出の先兵となったのは「ランドクルーザー」である。乗用車の輸出が再開されるまで、ただ1車種で米国販売を支え続けた。
実質的に、トヨタの米国進出の先兵となったのは「ランドクルーザー」である。乗用車の輸出が再開されるまで、ただ1車種で米国販売を支え続けた。拡大
1966年に北米輸出が開始された「トヨタ・コロナ」。米国でも十分に通用する性能を有しており、同市場でのトヨタの販売増に大きく貢献した。
1966年に北米輸出が開始された「トヨタ・コロナ」。米国でも十分に通用する性能を有しており、同市場でのトヨタの販売増に大きく貢献した。拡大
1968年の「ダットサン510」(日本名:ブルーバード)のカタログ。日産は米国に片山 豊を派遣。販売網の整理が功を奏し、実績を伸ばしていった。
1968年の「ダットサン510」(日本名:ブルーバード)のカタログ。日産は米国に片山 豊を派遣。販売網の整理が功を奏し、実績を伸ばしていった。拡大

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March 26, 2020 at 03:03PM
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